2 0 1 8 年 0 3 月 0 5 日
いつの間にかTwitterからもFacebookからも人がいなくなって、Instagramでなんとか近況を追える程度になっていた。SNSがあれば孤独とは無縁と思っていたけれど、ある年代に限ったことだったのだろうか。
たまたまそれが生まれた時代に、それがマッチする世代であっただけで、僕は何かを勘違いしていたのかもしれない。
ライフステージの変化が身に染みる。海に出てきたサケが、それぞれの川に帰っていくみたいだ。
自分は半端に優秀で、それなりに適応力もあるし、それなりに積み上げてきたものもある。だから、レールから外れられないのだと思っていた。
もっと適応力のない人間で、特に積み上げてきたものもないような人間なら、ガンガンにリスクをとって何かを仕掛けられるんじゃないか、やってやれるんじゃないかと思っていた。
或いは、もっと優秀なら。或いは、強烈な原体験や、バックボーンがあったなら。全部にそれは正しくないとは思うけど、一部にそれは正しいのではないかと思う。
積み上げて積み上げてなお高みを目指すということは、草木がどんどん枝葉を伸ばして、お日様の光を求めることによく似ているように思える。
逆に、置かれた場所で咲く花になるということにも、それなりの適応力とセンスが求められる。
でも、至難の技だと思うけど、置かれた場所どこでも炸裂していいと言われれば、弾け飛んでやろうじゃないかという気分になるし、気楽だ。なら僕はここで、炸裂する花火になれるだろうか。
天寿を全うして力尽きたサケの死骸が、山を潤し、海を耕すなら、ここで骸になることにも意味はあるだろう。子に自分を食わせる蜘蛛の気持ちが、この先分かるようになる日が来るのかもしれない。